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木曜日, 8月 04, 2011

▲イカロス翔んだ


晴れときどき阿呆果 


大山崎山荘美術館の障碍者対応について
プライベート・コレクションゆえの冷遇か
(アサヒビールCRS室に送った文書)
7月26日、あちこちでパブリシティを見かけて、アサヒビール大山崎山荘美術館で開催中の評判の「かんさい いす なう展」に娘夫婦の車で、出掛けました。
残念ながら車椅子対応の「みせかけ」だけに、展観せずに早々に帰宅しました。事前にホームページで確認、車椅子でも入場できることを知ったので、当日、約2時間前に電話を入れての美術館到着でした。
ところが、①ホームページ「美術館のご利用案内」には館内図の下段第1項目目に「車椅子でご来館の方は、事前に電話にてご相談の上、お越しください。(電話番号記載:075-957-2364)」とあります。車椅子なので施設へは車で最短距離へアプローチして降車の後、車は所定の駐車場へ置くものと、通常のルールと思っていました。しかし、この美術館では所定の駐車スペースで降車の後、急峻な坂を車椅子を押し上げてもらう方法しか入場方法がないと、案内スタッフに教えられました。
車椅子生活になってからの唯一の楽しみで多くの美術館
へ出向きましたが、この扱いは初めての体験です。美術館へ搬入される美術品や所要の品物はいったいどうして運搬されているのでしょうか?山の上にある多くの寺社でも展観を希望すれば、所定の運搬ルートが特別に許可され、拝観可能になっています(今春、あの急峻な紀三井寺さえ特別ルートで拝観できました)。
貴グループは私設コレクションゆえ、障碍者にはこの配慮は不要とお考えですか。
また、所定のポイントにおられた警備員氏の対応も「社会に開かれた文化施設」に相応しからぬ態度でした。
②エレベーターが利用できるのは美術館新館のみであることも案内の方の情報で始めて知りました。このような大切な情報を公開しないで、あたかも「障碍者」にも利用できるイージーな情報を流しておられるのか、疑問です。
見せかけだけバリアフリーは望みません。まだまだバリアフリー普及に時日がかかることもよく承知しています。障碍あるものにとって、利用不可とか不便な事前情報も「とても大切な」ものです。私のように不愉快な目に遭わないため、ゼヒ善処されることを信頼あるASAHIグループに望ます。
(7月26日記*応対の女性スタッフに悪意はないが、親身に障碍ある身になって考える余地はない。まだまだ社会には絶望することが多いぞ!)

晩節を汚さない

品川美容外科への捜査資料漏えい事件で逮捕された警視庁捜査一課警部は同外科幹部に「あんなOBを雇っているとつぶれるぞ」とすごんだという。後輩二人に入れ替えて「こいつらはスペシャリスト。任せておけば安心」とも。
老境で限界が見え出すと心地よい境遇がちらちら目前をよぎる。定年間近の役人に限らずサラリーマンも第二の道に狂奔だ。
 なあにメディアといえども事情は同じ。みなさん、第二ステージ(英語では第三ステージだが)が気になる。海外取材のイロハを私に教えてくれた某大名誉教授も、定年前に不動産会社が経営する地方紙の社長(ああなんていい響きだ!)転出の誘いに乗って、計画破綻が分かるや自宅で布団をかぶって震えていたのを、励ましに行ったことがある。
晩節、汚さず。ヘー(屁)こいて寝てたら?(7月25日記)  

仰天の叫び

衝撃的なノルウェーの叫びを聴いた。オスロとその郊外のウトヤ島を襲った連続テロ。極右思想とされる容疑者の男が逮捕された。オスロでノーベル平和賞授与式が行われて今年で110年という。皮肉にもNHKはBSで北欧特集だ。
不気味にうねる夕空を背に、やせ細った人物がおびえた顔で大きく口を開け、橋の上で両耳をふさぐ「叫び」はムンクの回想などによると、この人物が叫んでいるのではなく、どこからともなく聞こえる叫びに恐れおののく姿を描いたという。
しかし、火山爆発で実際に「叫び」の風景があったと実証する科学者もいて、NHKのくだんの番組で一つ一つ風景を再現していた。
美術史家・高階秀爾は「叫び」を含むムンク作品は「いっさいの日常的な音は遮断され、かぎりない沈黙のなかで、ひそかに運命の糸が紡がれている(「近代絵画史」中公新書)」という。エドワルド・ムンク(1863~1944年)は幼くして次々に肉親を失い、死に向き合って、その筆で魂の叫びを伝えようとしていたのか。「白夜の国」から恐怖と怒りの叫びと慟哭が聴こえる。(7月24日記)

めぐり来る河童忌

 明日は河童忌、芥川龍之介の命日「河童忌」である。雌の河童が出産するときに、オスの河童が胎児に向かって、生まれてくる気があるか大声で尋ねる場面が印象的。
あまりの暑さに衝動的に自死したのでなく、思い詰めた末のことだろう。「自殺に発作的ということはない」と何かに書いていた。
小学校の教科書でトロッコのシーンを思い出す。何処かに不安な面影が漂う風景だ。風景というよりもいつも人の心象を見ていたのかも知れない。(7月23日記)

ごくり水を

 朝、洗面時に水が冷たければうれしいな!と、つくづく思う。こんなに暑いと、生ぬるい水も出ることが多いが、それすら鉄管ビール?と称して、ゴクリ飲むあのダイナミズムが夏だ。
顔を洗うとき、両手で蛇口から水を受ける。両手で水をすくう、あるいは、両の手の平をくぼめて水を受ける行為を、誰に教わったのだろう。父や母、姉や兄に教わった記憶がない。記憶がないだけで、見よう見まねでいつしか覚えたのか、言葉を自然に覚えたように。
洗面や歯磨きが自分の手でタイヘンになったとき、ふとそんなことがよみがえる。そういえば、このごろ空飛ぶ夢を見ない。空を飛ぶってどういうことか。車椅子に乗らないで、突っかい棒がなくて、空に浮かんで動くこと出来ることだ。そんな真夏の昼寝の夢を、思い出した。(7月22日記)

美しい夏の行方

M紙ブックウォッチングで辻邦生、とっておきの3冊を井上卓弥が推奨していた。
「嵯峨野明月記(中公文庫)「美しい夏の行方 イタリア、シチリアの旅」(写真・堀本洋一、中公文庫)「ある生涯の七つの場所」(中公文庫・品切れ)が紹介されていた。辻は「今、ここに在る」という喜びを表現したという。
 歴史物の先駆けとなった「嵯峨野明月記」。名高い豪華本「嵯峨本」にかけた江戸の書画家3人の情熱を描く長編だが、立教大で教えていた68年に第1部が書き下ろされた。辻夫人が言う。「大学の同僚や先輩研究者から美術品の解釈や時代考証などの研究成果をうかがいながら筆を進めたものです。自作の朗読を求められると、作中の鶴の群れが夕暮れの空に舞い立つシーンを好んで取り上げていました」。もう一つ忘れ難いのが紀行エッセー「美しい夏の行方」。99年7月、滞在先の長野県軽井沢町で急逝する前日、「出版社から重版の連絡を受け『だってタイトルがいいもの』と満足そうでした」と夫人が振り返る。大作家でも「へぇーと」感心、57年、小説を書くためにパリに留学し、2年後、夫婦そろって文字通りの貧乏旅行で訪ねた思い出の地シチリア。再訪の喜びに解き放たれ、筆致は活力にあふれる。(7月21日記)

思ったように動けない

「思った相撲取れない」と魁皇が引退を表明した。幕内最多1047勝のレコードを手に悪ガキだった力士の引退だ。
想うように身体が動かさせない衰退は、わが身にとっても、同じ。事後の発展を祈るばかり。(7月20日記)

Eさん退院に

Eさんが3週間の入院予定を6週間に延長、退院の報に、メールで応えた。医師も病院も医学的知見で万全の治療を施したと思うが、病気を背負って生きる当人に「生き方や暮らし方」までサジェッションしてくれない。自身の体験から次の(大意)メールをEさんに送った。

「わざわざのご退院の連絡を有難うございました。ご退院、おめでとうございます。お見舞いに行けなくて御免なさい。予定の倍の入院、耐えたご自身の身体を先ずは褒めてやってください。
胃の全摘という大オペを終えられて、自宅静養される由、ゆっくり免疫力回復に専念されるようお祈りしています。無念ですが、仕事のことはあっちゃへ措いといて、とはなかなか行かないと思いますが、体力回復に意を注ぎましょう。
一般的に医者はビョウキのことしか知見がなく指導してくれません。病気と共生しながら生き延びるのは私自身ですから、私もいろいろ考えながら生活の仕方を工夫してきました。
たとえば、①リハビリのこと(ドクターはこの病気にリハビリ法は無い旨、告げたので、出来るだけ動くことにして隣接の公園へ行って格好の鉄棒を見つけ、伝い歩きを思いついた。公園でリハビリ中の他の老人たちも倣って始めるようになった)。②運動神経を喪失、立つとバランスを失くすための対処法を相談。といっても喋れないので、すべて「自身の思い」をパソコンでプリントアウトして申し出て、整形外科医師は「脚につける装具」神経内科主治医は1㌔の重錘」をサジェッション。ところが装具も重錘も足首に巻くと、擦れて痛む。(緩和のため、神戸の手芸店でぴったりのスポンジを見つけクッションに巻く)③噎せや嚥下力低下に、最悪の場合は胃ろう(胃に直接栄養を補給する穴アケ手術)がある旨、教えてくれるが?呑み込み易い方法は教えてくれない。(ゼリー状の経口補水液OS-1by大塚製薬を見つけ常時携帯、*Eさんの場合は薬を飲むときにいいと思います)などなど枚挙に暇ありません。ビョウキと共生するには、毎日の暮らし方自体が創意です。
すでに骨折で体験されたことでしょうが、身体が思いのまま動かない苦労や食い物に制限あることは計り知れないものがあります。発病でみなさんから「病気をそのまま受け入れて!」なんて言われますが、承服するには私も余命といわれた3年という時間の経過が過ぎて(ただいま7年目)からです。
抗がん剤治療にも体力が消耗するやに聴きますが、プラス思考のEさんにはお節介は無用でしょう。私は動かない身体のことを「超高齢化が一寸ばかり早く来た」と自分に言い聞かせてます。
16・17日はOさん、SGさん、SNさんと一緒にOHさんのご好意に甘えて送迎つきで奈良のならまち界隈、春日原生林、唐招提寺+OHさんの世界一周クルーズのスライドまで満喫できました。
まだ夏は始まったばかり、何かと不便でしょうが焦らないで回復をしてください。またメールしますが、安静専念のため返信無用です。「何かお困りのコトあらば、お訊ねください」とりあえずお大事に!!!(7月20日記)  

海から来ました

一泊旅行を車で応えてくれたOHさん。一夜、世界一周ピースボートの旅の写真を見せてもらうと、海景の美しさに、あらためてOさんの海への思い入れが理解できる。ヘミングウェイ好みのパナマ帽もぴったりだし、ダンディさを誇るOさんが夜毎船上でダンスの特訓の風景も想像できて楽しい。
我々は儚いイノチの来た「海」を思い出さずにおれない。海遊館「超水族館のうらおもて」出版時の前書きを再現する。
イノチのドラマの地球誕生は46億年前、ほぼ同時に海が誕生。7億年を経て海水成分が安定して生物の祖先が生まれたが、34億年、海から出られず。30億年前に光合成で藻類が繁栄、酸素が増えて大気へ移行、雨が川になり海と陸がつながりオゾン層が形成。紫外線から護られた生物が陸上へ。4億2千万年前、地上に植物の元祖シダ類登場。その後3千万年を経て魚から進化して脊椎を持つ動物が陸上に進出なる。
地球史を1年のカレンダーに置き換えると、3月に葉緑素を持つバクテリアが発生、9月に酵母菌が生まれ、12月3日に両生類が誕生、14日に爬虫類と恐竜が、20日に鳥類が現れる。人類は12月31日午後10時過ぎにやっと出現したに過ぎない。
ああ人間のイノチが来た海よ!(7月18日記)

猛暑の唐招提寺で

 鑑真の「唐律」「招提」寺である。
50年前、GENちゃんとユースホステル協会行事で訪ねたころの鄙びはないが、南大門から眺める金堂はあいかわらず「端正」そのもの。8本のエンタシス柱、シ尾を頂く屋根の反り。天平の甍に寄せる想いを、残念ながら同行のみなさんには漏らした「たんせい・やっ」が伝わらないもどかしさ。
が、係員が駐車場から飛び出て来て先導での入場。境内一面に敷き詰められたバラスが、南大門から金堂にアプローチできるように中央部分だけ車椅子幅で、避けられている!これぞ鑑真和上の心づかいか!
753年12月、6度目の渡海で来日。翌年、東大寺大仏殿で聖武天皇など400人余に授戒、右京五条のこの地に戒律専修道場を創建したのは天平宝字3年(759年)。律宗総本山唐招提寺は始まる。
89年の大修復、東山魁夷の襖絵完成時に展観したし、「中秋の名月・観月讃佛会」で観た本尊・慮舎那佛、東に薬師如来、西に十一面観音像が美しさも忘れられない。若いころは古寺巡礼を「仏像乞食」と蔑んだ罰は十分頂戴している。(7月17日記)

そう蚊!

 「シトウ(嘴頭)のセンエイ(先穎)はキリ(錐)にヒト(斉)しく、インイン(殷殷)たる雷声は閤閨(コウケイ)をメグ(繞)る。一たびラコク(羅恕ト)の隔てを透過してヨ(自)りは、鉄牛の背上もタダ(爛)るることデイ(泥)のゴト(如)けん」。一体何のこと?キリのような鋭い口先、寝室に響き渡る轟音。いったん衣服を通過すれば、牛の背中でもただれてしまう…。やや大げさな表現のせいか、巨大な化け物を想像するが、あに図らんや、この詩のタイトルは「蚊」である。こちとらの不自由さを敵は先刻ご承知。毎日出掛けるたびにドアから攻撃を辞さない。
うるささとしつこさに座禅中の虎関師錬(こかんしれん)(五山文学の祖とも称される禅僧1278-1346年)も心を乱されたらしいと高橋睦郎の「漢詩百首」に。
「吸血鬼」の蚊は日本脳炎やマラリアを媒介する厄介者であるが、昆虫の機能を応用する「インセクトテクノロジー」の世界で最近の「痛くない注射針」は蚊の吸血器官を参考に開発されたというし、蚊は血液が固まらないよう、特殊な唾液成分を注入しながら血を吸い取る応力あるらしい。そこで血液をサラサラにする新薬の研究も進んでいる(長島孝行著「蚊が脳梗塞を治す!昆虫能力の驚異」)と、永平寺のお膝元、福井新聞のコラム越山若水は伝える(7月16日記)。

書店員の運命は?

季刊誌「考える人」はユニクロが単独スポンサーで新潮社から出ていて、そのメールマガジンがなかなか読ませるので愛読者の一人だが、14日着信の450号「それでも朝は来る」―は憧れの書店員の悩ましい現状報告を、出版人としてシンパしながら冷静に分析している。ホンヤさんの職業観、使命感が見えてきて、仕事と狭間で『生き方』の模索はためになる。
以下、長文だが抄出する。
昨年8月、PARCO出版刊行の『傷だらけの店長』という本が話題になった。著者は伊達雅彦、中規模チェーン書店の店長を9年間務め、最後は近隣に大手ナショナルチェーン店が進出で本部から「閉店」を命じられ、やがて「書店員」の仕事を断念していく経緯をリアルに綴ったドキュメンタリー。
「著者の書店員としての能力は抜群で、本に対する愛情の深さは圧倒的で、“本に奉仕する”といってもいいほどの思いを注いでいた。それに比べると自分は“そこそこ”の書店員でしかありません。つまり、彼に明らかに負けたことで、自分の存在価値は何だろうか、と考えるようになりました」
 この発言は7月9日に開かれた「本の学校・出版産業シンポジウム2011」で、「いま改めて書店について考える――本屋の機能を問い直す」というシンポの一つ「書店に求められる人材とは」で“著者の同僚だった”書店員。
 実際に読んでみると、内部告発調とは違って「ただひたすら本が好きで好きで」、学生時代にアルバイトをしていた書店にそのまま就職し、やがてその同じ店の店長となって戻ってきたという著者のまっすぐな生き方に親しみを覚えた。同時に、そういう匂いを放つ書店員だけに、「天職だ」とまで思った(最後までその気持ちに変りはなかった)「本屋」の仕事に次第に耐えられなくなっていく過程も理解できる気がした。中学生の甥が「僕も将来、本屋になりたい。楽しそうだもん。叔父さん、どうやったら本屋になれるの?」と問いかけに、即座に「やめとけ、本屋になんかなるな」と答えてしまう著者の自問自答が本の導入部にある。
〈台車に積み上げた本の山を見て、うんざりする。本なんかもう見たくない、と思う。本が好きで書店員になった。本が好きな気持ちはいまも変わらない。しかし本が本当に好きなら、書店員になるべきではなかったのかもしれない、と思い始めている〉〈どうして私はここにいるのだろう。どうして私は書店員であり続けるのだろうか〉〈何回も辞めようと思った。「こんな賽の河原みたいな仕事いつまでも続けてられねえ」と実際に辞表を書いたこともある。それでも結局、その辞表を叩きつける度胸もなく、20年近くもこの仕事を続けてきた。たんなる惰性、ではないようなのだ。いったい何が、辞めようとする私の心を引き留めてきたのだろう〉
 会社から与えられた業務時間はあまりに短く、ごく日常的な仕事をこなすだけでも朝早くから終電ギリギリまでかかってしまう。給与は低く、土日祝日もなく出勤。その上、本部からは的外れな指示が送りつけられ、スタッフには勝手な要求を突きつけられ、あいつぐ来店客や出版社の営業担当の応対もままならないところに、万引きは後を絶たない……。どんなに頑張っても、この悪循環は一向に改善される気配もなく、心の底には徒労感がしだいに澱のように溜まっていく。その様子が、少し突き放したような、抑えた筆致で語られている。
 それでも、仕事への情熱、書店人としての矜持は失わない。探していた本を見つけたときのお客の表情や、意外な本にめぐり合った時の楽しさを人に感じてもらう喜びを最後の拠り所としながら、なんとか踏みとどまろうとする。実際、著者が信じてきた「書店の存在意義」がすっかり消えてしまったわけではない。
 しかし、そうした個人の夢や願望を情け容赦なく押し流していく負のスパイラルの勢いは強大である。章を追うほどに、業界の構造的な問題と過酷な現場との間で、板ばさみになって苦しむ著者の姿が痛々しく感じられる。店の棚作りに心血を注ぎ、「どれも、私がじっくり選んで仕入れた本だ。『なくていい』ものなど、一冊たりともこの棚にはささっていない」と自負するほどに懸命であるからこそ、その孤独な姿に胸をふさがれるような思いがしてくる。
 パネルディスカッションで「彼のような優れた人材が燃え尽きるようなことがないように」書店の環境整備をすることが、その後の自分の役割だと思ったと、書店員の発言者は続けた。業界の制度的な見直しが始まっているし、別の分科会では、地域に根ざした店舗づくりを地道に続けている地方書店の意欲的な声も耳にした。
職能としての書店人は何をすべきなのか、まさに「書店の存在意義」の明確化を求める動きが起きていることも事実。書店の未来像を描く道のりは容易ではないが、困難であればこそ、もう腹を括ってやるしかないという反転の兆しが今年のシンポには感じられた。
 それにしても気になるのは、書店への「未練」を捨て、それを完全に断ち切って、前に進むことを選んだ「店長」のその後だ。
〈多くの書店で同じ思いを持ち、志を捨てずにいる数少ない書店員たちが、そうでもない者たちに囲まれながら、この朝もまた、店を開けるだろう。そして、多くの妥協を強いられ、悩み、苦しみながら、働くだろう。ある者は己の志を貫こうと努力して周囲と衝突し、またある者は、どうにもならない状況に屈し、あきらめてしまうかもしれない。私と同じように、辞めようと考える者もいるだろう。
 でもそれらの誰ひとりにも、「本」に対しての熱い思いだけは失ってほしくない、と願う。売上減少に頭を悩ませ、理不尽な客のクレームにうんざりし、データ本位で構成された棚を前に奥歯を噛みしめ、本が思うように入荷しないことにため息をつきながらも、本を愛する気持ちだけは失くさずにいてほしい〉
 そして、その情熱だけが「本」と「書店」を守る武器となり得るはずだ、と店長は書いた。「その気持ちさえ失うことがなければ、『書店員』というかたちでなくとも、これからも積極的に『本』と関わって生きていくことができる。方法はまだわからないけれど、多くの『傷だらけの書店員』とともに、『本』に対していつまでも能動者であり続けようと思う。そうでいられるはずだ」と締めくくった。
書店をのぞきながら、かく悩む書店員の存在や「職業意識」に考えが至れば。(7月15日記)