まや-NET

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火曜日, 8月 16, 2011

                       ▲MY PASSING DAYS

晴れときどき阿呆果 

敗戦記念日

敗戦記念日の今日、先の第二次世界大戦を振り返る。米国では戦勝記念日がミズーリ艦上の降伏文書調印の9月2日で、8月15日は日本側のみ、おまけに「終戦記念日」と摩り替えた。
それにしても、誰もが出自を振り返るという旧盆直前をポツダム宣言受諾日に、8月15日に玉音放送を画策したのか?照りつける夏空に果てしない疑問は広がる?戦争が終わって幼少時に見上げた青空にB29が飛行雲をたなびかせて飛んで行くのをまざまざ記憶している。
47NEWSにデーリー東北が「八戸で米軍の空襲予告ビラ発見(2011/08/15 08:27)」と伝える。
終戦直前の1945(昭和20)年8月上旬、米軍が八戸市上空からばらまいた空襲を予告するビラ1枚が、市内の男性宅に保存されていたことが分かり、市に寄贈された。
ビラは紙製で、縦14センチ、横21・5センチ。モノクロの写真と文章が両面印刷されている。表面には、米軍のB29爆撃機の写真と「八戸」など空襲を予定する12都市名を明示している。裏には「日本国民に告ぐ」と題し、「数日中に爆撃する」「爆弾には眼(め)がないからどこに落ちるか分からない」などとして、避難を呼び掛ける文章が日本語で記されている。当時、米軍により、同じ内容のビラが全国33前後の都市に投下された、とされる。地域によっては、都市名の組み合わせが異なるものも確認されている。市内では45年8月5日ごろから同10日ごろにまかれたとみられているが、戦時中は、ビラなど敵国のものを所有するだけで「非国民」とそしりを受けたり、スパイに疑われたりした時代。自警団や軍部によりすぐに回収、処分されたため、残っている可能性は低いとされていた。

大戦での死者総数5500万人の約半分3000万人(うちユダヤ人600万人)が一般市民だった。戦死した長兄や知己、無辜の民の霊に瞑目!(8月15日記)

明日は新聞休刊日

 ラッキーにも新聞界は休刊日でホッと? (誰が?)
Y紙・編集手帳は「一升瓶の中の玄米を棒でザクザクと搗く」と、戦時中や終戦直後の映像に見る苦労を体験、主婦の買い出し体験記から再現し九段の「昭和館」で、〈戦後復興までの道のり/配給制度と人々の暮らし〉と題した特別展を紹介。
 N紙・春秋は「大災害の後には、人々の新たなつながりが生まれる」。地震、大風、テロなどに襲われた町で何が起きたかを調べ、そう結論づけた研究書が米国『災害ユートピア』日本語訳出版を引く。食材を持ち寄っての炊き出し。信号の消えた夜の交差点では自主的に交通整理。各地から集まるボランティア。一般の家庭による被災者の受け入れ。ふだんは競争に明け暮れる人々も、パニックに陥らず、助け合い、食べ物を分けるなど「無数の利他的な行為」が見られたと、ノンフィクション作家の著者は米国を中心に中南米、欧州などの事例を記す。
 A紙・天声人語は田辺聖子(83)の玉音放送を一家で聴いた。「降伏したみたいなこと、いうてはる」と父。「フシが、なさけなさそうですなあ」と母が頷(うなず)く。大人の脱力ぶりに呆(あき)れ、17歳の軍国少女は一人、無念を日記にぶつけた(回想『欲しがりません勝つまでは』)66年前のきょう、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に伝えたことを。
 M紙・余録は当時大阪本社在社の井上靖の日記を「五時から部会があったが、出席者は少なかった。そのあと薄暮の町を歩いてみる。街はひっそりと焼けあとだけがどこまでも拡(ひろ)がっている。何年かぶりで散歩といった歩き方をする。ゆうべ京都で見た下弦の月が焼土の上にかかっている」と。
 皇紀2600年に生まれた我が身は貧しさいっぱいの「この戦後」を振り返り、僥倖という言葉に尽きる思い出がいっぱい返って来る。(8月14日記)

虐待されたかのようにセミ鳴く

 沖縄では旧盆のとき海で泳ぐことは厳禁とされ「あの世から帰ってきた霊が足を引っ張って溺れさせるよ」と、祖父母の強烈な脅しは、子どもだましと分かっていても教訓として守り続けているという。祖父母としては先祖供養を取り仕切らなければならない。一族がそろう貴重な3日間に結束を強め、いらぬ事故で世間に迷惑をかけないためにも、霊を利用したのだろう。
ヤマトでもお盆以降は土用波を警戒して遊泳は避ける。クラゲの出現も多くなったようにも覚えている。
 旧暦7月13日はウンケー(先祖をあの世からお迎え)、14日はナカヌヒー(中元を持ち、親戚を一軒々々回って歩く)15日はウークイ(先祖をあの世にお送りするお盆の中で一番大切な日)。旧盆初日のウンケー(お迎え)の昨晩、八重山は伝統芸能「アンガマ」でにぎわった。グソー(あの世)と現世を行き来し、珍問答で爆笑を誘うウシュマイ(爺)とンミー(婆)も、さすがにこの1年の日本の変わりようには驚いたのではないか、と沖縄タイムスは伝える。
ここ数日、MAX35℃を超え喘いでいる。セミも水に身を投じたいか、ベランダに投身自殺。子どもが虐待されたかのように悲痛な鳴き声を上げる。(8月13日記)

竹馬の友 GENちゃんへの手紙

 お便り有難うございました。
 この暑さの中、元気に東奔西走されていることを知って嬉しい限りです。あらためて残暑お見舞い申し上げます!
 舞鶴へ行かれたとお聴きします。震災以来、自衛隊もすっかり市民権を得てのTVコマーシャル放映を見ながら、歳月の経過に感慨あらたです。
 私の方は、あいかわらず体幹機能の衰えが進み自宅内の移動も車椅子で動くようになりました。まあ、老化が進んだからと、自ら言い聞かせています。
 ところで先月26日、いつぞや貴兄とYUKさんに連れてもらった例の琵琶湖岸草津の「みすの森公園」へ娘夫婦に連れてもらい、蓮を見てきました。朝早くから大勢の人が詰めかけ壮観でした。
その帰りに、アサヒビール大山崎山荘美術館へ寄り、美術館側の車椅子に対する対応が、事前に電話を入れてあるにもかかわらずあまりにも冷たかったので、入館せずに帰りました。アサヒ本社にメールを送り抗議したところ、館長名でお詫びの返信が届きました。いまバリアフリーに改装中だとのこと、それならそうと教えてくれたらと、いっそう腹立ちが深まりました!
 また、先月16、17日に奈良で友人たちと一泊(教員共済の春日野荘)、懐かしい唐招提寺を訪ねました(ユースホステルの会?で行った若い日を思いました)。何と駐車場へ着くなり寺の係が飛び出してきて、車椅子を先導してくれました。なお、吃驚したことには、境内一面バラスが敷き詰められた中、中央部分に車椅子が通行できるようにバラスがはがされていて、金堂に容易にアプローチできました。なんだか鑑真の遺徳に遭ったような気がしました。この件があったのでアサヒの対応が余計に冷酷に見えました。
 ま、そんなものですね、世の中は。
 今週火曜日には大山方面へ暑気払いに日帰りドライブに連れてもらいました。蒜山でランチを取って、大山側へドライブ。ブナ林や雄大な眺望を満喫、ソフトクリームを食べていたら雷鳴が聞こえ、たちまちの豪雨で帰路を急ぎました。米子道を越した途端、中国道はピーカンの日照り!オマケに宝塚の大渋滞まであっての一日でした。
 暑さに喘いでいますが、お陰さまで毎日、昼寝をたっぷりしますのでわりあい元気です。今日は月1回のホームドクターの往診を待ち受けています。来月は20日に北野病院神経内科主治医の3カ月検診です。
 秋になってまたお会いできるのを楽しみに精進を続けます。同封の招待券が手に入りましたので、お好きなようにしてください。
 ではご家族の皆さんのさらなるご健勝をお祈りしています!(8月11日記)

秋立つ

公園のサクラの枝に目を凝らすと、堅い小さな芽がいくつも付いていた。サクラの芽は夏にかけて力をつけ、小休止して冬に深い眠りに入るそうだ。ブナ林の大山では、ナナカマドが薄緑色の実をびっしり。「赤くなる準備は完了」と誇らしそうだ。昨日の「秋立つ日」を知悉していたかのように、植物の世界は、着実に済ますべき仕事を済ませ、果たすべき役割を果たしている。
その寡黙な連続性の律義さ。ヒトに真似ができない意志の力で自然界は一歩一歩変化を続ける。(8月10日記)