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日曜日, 9月 09, 2012


▲山の独り言
09月07日(金)広開土王碑の旅を想って

6時起床。夢忘失。EXの身支度で7時前、公園へ。暑くて風がない、今日もMAX34℃の予報、白露というのに。噴水池にカルガモが群れる。鉄棒伝い歩き3周、途中で鉄棒にテグスを張ったイタズラ発見するも処理は無理、そのまま放置。帰路、カルガモの数が増えている。例の餌やりオバサンがパンくずを池に撒いている。道理で20羽近く群れるんだ。7時半帰宅、汗を拭いてもらい朝食。トイレ行くが×。SHINから電話定期便。9時半DESKに。昨深夜、中国へ出発のSATさんから「行ってきます」の丁寧なメールを頂戴。忙中、有難いなあ。元気でBON BOYAGE!
11時、訪問看護ナースOさん来宅。検温36・1℃、血圧128―76でやや高いかナ。5日W先生の診察結果、残尿50だったことなど伝え、以後も順調なことを。
皿UDONを食べクーラーONで午睡3時まで。起きて珈琲&くず餅して、制作した塗り絵をスキャン。遠雷かすかに聴きながらシャワー。夕食のトロロで口の周囲痒く、電動シェバーでヒゲ剃る。
SATさんの古道山歩―海外編「広開土王碑を見に行く――大連・旅順と集安・丹東の旅」レジュメ届く。今朝、出発メールをもらったばかりで教科書に出てくる「広開土王碑」へのツアーに興味津々。送ってもらったレジュメをBEDで一気に読む。

中国東北部の高句麗は4~5正規が絶頂期、領土は朝鮮半島北部に及び首都は吉林省集安。高句麗の19代国王・広開土王の功績を讃えるため子の長寿王が大王死後2年目にたて、今年は没後1600年。高句麗の首都はその後、平壌に移り、いまもって朝鮮民族の聖地。
日本の一般的教科書には「中国東北部からおこった『高句麗』は、朝鮮半島北部では楽浪郡を滅ぼし(313年)、南部では馬韓から百済がおこり、辰韓からおこった『新羅』が国家を形成。越資源を目当てに弁韓の地の『伽耶諸国』(日本書紀では任那)にヤマト(倭国)が進出して南下した高句麗と争い、碑文に高句麗の騎馬軍団と交戦したことが記されている。碑文によると百済や新羅はもともと高句麗の属民で、倭国(蔑称)の兵が391年、海をわたって百済や新羅を討ち臣民にしたと読める記述があるため日本軍の改竄だという主張もあった。*後に否定された」。
その後、韓国では『新羅』が唐を駆逐して朝鮮半島を統一した民族アイデンティティーを。北朝鮮では高句麗滅亡後も唐の支配を逃れ、渤海を再生して存続した歴史と平壌がその首都だったこともあって高句麗が民族アイデンティティーとしている。さらに中国は高句麗が中国東北部の扶余系民族が中国の一地方政権であるとしているが、日本の学会では「高麗期に各民族が混交し、朝鮮民族が形成されていった」としている。
まあ、国是国情が違うからしゃあないか。ただ今、我が日本はこの中朝韓は微妙な外交関係。くれぐれもSATさんの御一行(18人)に異変が起こらないことと無事帰国を祈る。
高句麗は778年滅亡、旧領に残ったものは勃興する女真族の金に吸収され、一部は日本に逃亡、埼玉県日高市や飯能市に住み、高麗神社や高麗川に名をとどめている。
ツアーは日露戦争の203高地などゆかりの地や中朝国境の丹東市へも足を伸ばし、そのガイドも詳述があり熟読。何よりも嬉しかったのは最後に唱歌「水師営の会見」と「廣瀬中佐」の全歌詞記載だ。懐かしさに、声にならない声で高唱してみる!アナクロを嗤うナ!♪スギノはいずこ、スギノはいずや!♪教えてくれた教生(昔、研修中の教員候補生をこう呼びました)の顔まで思い出した。
MENU③白菜BACON炊き合わせ・トロロ芋・マナガツオ煮*バナナ&ナシ**ラキソベロン12滴