まや-NET

http://mayanet.zouri.jp/

木曜日, 4月 07, 2011


▲紀三井寺の桜と眼下に広がる海(4月5日)


晴れときどき阿呆果 二億千七百万秒余  


 「花また花へ 移る陽に 車椅子」。桜ドキは毎朝が花見。今日こそは何かを仕上げるつもりが、そうではなく、何も完成しないで終ってしまう。 

 J・リュック・ゴダール監督は「気違いピエロ」の中で、アンナ・カリーナに「一時間は三百六十秒、一カ月は二十五万九千二百秒。人生七十年、我々が生きるのは二億千七百七十二万八千秒あったという。「うんざりするほどの時間だ!」というのに何も出来ない!(4月06日記)


晴れときどき阿呆果 吉本隆明、震災を考える  


「未曽有」が読めないソウリ大臣もいたが、未曾有の原発複合災害が社会に大きな影を覆ってしまった。 「共同幻想論」の吉本隆明がA紙のインタビューに答えて言う。「災害状況が進行中ですが、お前は考えているのかと問われれば、絶えず考えています。いくら考えてもわかんねえってこともありますが、自分なりにずっと考えています。」と、むかしサヨクの星が親鸞の往還論を引き合いに出したので、要旨をメモった。 

 私事と公け、どちら選ぶか? 戦争が終わって落胆したが、思い返せば軍国主義だけはよく学んだけれど、それ以外のことは学んでこなかったので、本を読みました。『新約聖書』も読んだし、マルクスの『資本論』も古典経済学のアダム・スミスも、自分なりの読み分けができるまで読みました。これから自分は何を警戒し、何を戒めとしたらいいのか。読みながらそれを考え続けた。考えたことの中に、レーニンとスターリンの対決で結末がついた問題もあった。切実な私事と公、どちらを選ぶべきか、という問題である。レーニンは、ロシアに本当の意味でマルクス主義社会が成立するなら、その時は共産党は解散しようと『国家と革命』の中で言っている。共産主義の相互扶助が成就したら党を解散しようというのがレーニンの考え。そして年をとったレーニンが病に伏し、妻が看病するが、スターリンはレーニンに対し、おまえの妻は党の公事をないがしろにしていると批判。そこから二人の対決が始まる。家族の看病や家族の死といった切実な私事と、公の職務が重なるとき、どっちを選択することが正しいのか。東洋的、スターリン的マルクス主義者であれば公を選ぶのが正しいというであろう。ところがマルクスは、そうではないことを示している。 

 マルクスは、唯物論でなんでも白黒つける論者たちとは異なり、肉親が死んだときの寂しさ、闘病のつらさといった切実なことは、公の利益のよさといったことと別のものだということを「芸術論」で言っている。「私」をとるのがマルクス思想の本流であり、それは比較や善悪の問題でもなく人間の問題なんだ、というのがレーニンの立場。真理に近いのはどっちだ、ぎりぎりの時にどっちを選ぶんだとなれば、レーニンの立場を選ばざるを得ない。  

親鸞の往還論 日本で似た問題提起をした人物ば親鸞。弟子から「死んだら極楽浄土に行くそうですが、私は少しも極楽浄土に行きたいと思えないのです」と打ち明けられ、親鸞は「現実社会というものは煩悩のふるさとだから、ふるさとを離れがたいのと同じように人間は煩悩から離れられないものなのだ」と答え、オレもおまえと同じだと伝える。そのうえで親鸞は「人間には往(い)きと還(かえ)りがある」と言っている。「往き」の時には、道ばたに病気や貧乏で困っている人がいても、自分のなすべきことをするために歩みを進めればいい。しかしそれを終えて帰ってくる「還り」には、どんな種類の問題でも、すべてを包括して処理して生きるべきだと。悪でも何でも、全部含めて救済するために頑張るんだと。この考え方にはあいまいさがない。かわいそうだから助ける、あれは違うから助けない、といったことではなく「還り」は全部、助ける。しきりがはっきりしているのが親鸞の考え方であると。 ずい分、歳を重ねた吉本らしい。(4月05日記)

晴れときどき阿呆果 ドーナツの穴?


 珈琲ブレークでドーナツを食べ始めると、ドーナツの「穴」という概念は、目前からはだんだん消える。見えない穴は?

4月2日Y紙復興『論点スペシャル』骨と血で生き直せる・宗侑玄久は『天災は従容として受け入れるしかない。しかし、人災である原発事故に関しては従容としているわけにはいかないのだ。政府も東電も国民に対して誠実であってほしい。人間の死に『死に甲斐』があるとすれば『その人の死によって周りがどれだけ変わったか』という以外にない。今回、これだけべらぼうなことが起きた。骨だけを残して、肉など外側のものはみんな変わっていくというくらいの価値観の転換が起こるべきだし、起こるだろうと思う。人間は、骨があって、周囲の人との心のつながりに血が通えば、生きていける』というが、やはりドーナツの穴か?(4月04日記)


晴れときどき阿呆果 花見


『世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし―在原業平』「戦時中の日本人の連帯感は美しい、見習うべきだから自粛しよう」と、イシハラシンタロー知事による花見自粛呼びかけで都内の花見が実質上中止が多いらしい。自粛する意味がホントにあるか?Jishuku。ニューヨーク・タイムズが震災後、日本の自粛ムードを伝える大きな記事を世界に配信、急にグローバル化した日本語になり、美徳というより「無難な横並び、過剰反応のマイナスイメージ」で伝えている。

朝食時にベランダ越しに集落鎮守の森一番手前に見える大きな桜がほんのり咲き始めた。午後、出掛けた公園では桜は3から4分咲き。露店が出て大賑わい。こもごもブルーシートで家族単位やグループが弁当を広げている。日本人は分に応じて花見を楽しんで美意識を形作ってきた。震災の被災者を思いやって花見自粛論が出ているが、酔態さらしての放歌高吟はこういうときでなくとも控えたい。しかし、節度をもって日本の美を楽しむことを遠慮する必要はなかろう。米国の首都ワシントンのポトマック河畔は日本から贈られた3000本のサクラの名所として知られる。先月24日には咲き始めたサクラ並木で「日本支援」の黙とうと静かなデモが行われた。サクラの花には人の心を結ぶ力もあると、M紙コラム余録はいう。

中には作家で老人党の「なだ・いなだ」のように、「桜も嫌い。大和魂も嫌い。NHKは桜前線などと、なんであんなものに騒ぐのだ」と憤慨する御仁もいる。「なだ」は桜の代わりに、自宅に植えた白い花桃で日本を埋め尽くしたらいいのに。純白の花。散るまで純白。散るときも純白。箒(ほうき)で集められても純白。散るときの花吹雪の美しさ、桜など比べものにならない。あまりの美しさに見とれて転ばないように。春の空に一番合う。桃ついでにいえば新左翼「いいだ・もも」85歳が31日、老衰で大往生したと伝わる。(4月03日記)