まや-NET

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火曜日, 5月 17, 2011







▲上は日田の小鹿田(オンダ)焼登り窯風景、中は霧島山中の田の神サア、下はスケッチ5月8日



晴れときどき阿呆果 中電、浜岡再開の報

 CLIPPINGしていたら田中龍作ジャーナルが『中部電力が市民に浜岡運転再開』の第一報!
日本プレスセンター内にある中部電力・東京支社に市民ら230人が14日午後「廃炉の要望書」を同支社・加藤隆之総務課長に手渡したところ、応対した同支社の加藤隆之総務課長は「防潮堤が完成する2年後には運転を再開する。廃炉にするつもりはない」ときっぱり言明したという。「運転停止は防潮堤が完成するまでの措置」―中部電力が固執する路線で、それを改めて市民に強調したまで。ここまで自信を持って言い切るには、政府のお墨付きを得ているのではないかとも勘繰りたくなる、と伝えるが。むろん大手メディアは伝えていない。(5月15日)

晴れときどき阿呆果 オウムの冥い思い出が

 『週刊新潮』5月19日号は【「原発ゼロ」なら日本はどうなるか】の特集を組み、さまざまな悲観的予想を紹介。結びは「原発をやめるかやめないかで解散総選挙をしたら、あなたはどちらに投票するか」と、あいかわらず「ヒヤカシ!」パターン。電力不安を掻き立て、正当右翼を標榜する魂胆ミエ見得。あの「正力・CIA説」を出版した社?と訝る。なるほど右翼が泣いて喜ぶ「共産主義体制の欠陥」をチェルノブイリは露呈してロシアは解体した。
 メルトダウンしたフクシマ第1原発事故が世界に与えた心理的衝撃はチェルノブイリをはるかに上回る。安心・安全・信頼では世界屈指のジャパンで原発事故が起きて、世界中は自国でも起きる可能性大の普遍的事象だと踏んでいる。フクシマ事故は現代文明が持つ冥界の一端をのぞかせた。95年のオウム事件と同じショックを世界中に与えだ。何一つ不自由のない恵まれた高学歴の若者たちが1人の指導者に心身をささげ、サリンや炭疽菌を開発した。当時、米国は事件に強い関心を示し、対テロ調査団を日本に派遣して背景を調べて、後になって01年9・11同時多発テロにおける国家対組織の非対称戦争を先取りした事件となっている。
 『日本は米国のように現代文明の先端を走っている国ではない。フランスのように世界に対するミッション(使命)を自負している国でもない。むしろロー・プロファイル(目立たず)の国だ。その日本が、現代文明が抱える深い闇を予兆させるような出来事をまれにだが引き起こす。効率一辺倒の生き方が、何か本質的なものを脇に追いやってしまったからなのか。安心・安全・信頼が表面的なものにすぎないからなのだろうか。しかもオウムは阪神大震災の時に起きている。3・11以降、「なぜ日本が」という問いが私の中で続いている。』 M紙、西川恵専門編集委員は今日のコラム(金言)でいう。(5月13日)

晴れときどき阿呆果 原発単価の高さ

 ながらTVで朝食。TV朝日が「原発の発電原価は本当に安いのか?」と検証まがいをやっていた。電事連データのエエとこ採りを京大・小出助教授、もう一人関西の学者(同志社教授?)が指摘。河野太郎議員も経済産業省が黒塗りデータしか提示できなかった経緯をコメント。「導入時(過去)からの利権のしがらみ」とはっきり言明。
 電源3法があって交付金の額がハンパではない。資源エネルギー庁によれば、たとえば出力135万キロワットの原発を造る場合は、まず運転開始までの10年間に449億円が地元へ。その後も年々20億円ほどが投下される。全国自治体に渡る交付金総額は年間約1200億円。ほかにも立地市町村や周辺への「原発マネー」は過疎に苦しむ地域にとっては本当にありがたかろう。ハコモノの建設を競い合い、○○プラザとか△△センターの豪華施設が鎮座する。もちろん、福島も浜岡も。過去30年余りに及ぶ国の立地対策として原発マネーから抜け出せぬ悩みをもたらしたのが電源3法。エネルギー政策のきしみを根本から考える時期でもあろうか。
 原発奨励TVCMのタレントはじめ、マスメディア、広告代理店、学者に至るもろもろの衆が恩恵をこうむった後の祭りは、どうなる? (5月12日)

晴れときどき阿呆果 暴走してるのは?

浜岡原発停止の言い分が通ったM紙コラムニスト山田孝男は「暴走してるのはどっちや?」と今日も言う。快哉!あっぱれ!
 問題の核心は、何がなんでも電気をつくり、使い続けようという人々と、流れを変えようとする人々の綱引きだ。全原発の即時停止が非現実的だということは誰も知っている。「危険な原発は他にもあるから浜岡を止めるな」は通らない。危険なら他の原発も中期的に抑制するのが当たり前だろう。
 これは、福島の、あれだけの惨状を直視して原発依存を見直そうという常識と、福島を見くびり、過去の惰性に開き直る時代錯誤との戦いである。首相の次の一手に注目する。(5月09日)

晴れときどき阿呆果 55体制の残骸

 贔屓の藤森照信の書評記事を眺めていたら、堀田典裕・著『自動車と建築――モータリゼーション時代の環境デザイン』(河出ブックス)を紹介していて、うなづき二重丸!
この本に書かれた車と建築の関係を、戦後史の中に置いてみると面白い。
 50年、庭付き一戸建ちを推進するため住宅金融公庫創設。政府によるこの国民小資産所有計画に対し、55年、社会党主導により、私所有ではなく賃貸の集合住宅推進を目的に日本住宅公団設立。同年、政府、国民車(軽自動車のこと)開発を各社に指示。翌年、アメリカからワトキンス調査団が来日し、高速道路建設を提言。住宅と車は、国民生活レヴェルにおける55年体制の物的基盤として、車の両輪のごとくして動き始めたのである。
ナールほど!当方のビンボウ生活の歴史をなぞるなあ!依然、55体制は矍鑠として残っている。(5月08日)

晴れときどき阿呆果 KAN、浜岡に停止要請したが

 静岡・浜岡原発は30年以内に87%の確率で起きるとされる「東海地震」想定震源域にあり、今月18日にM紙山田孝雄が正面切って提案して以降、M紙は浜岡原発停止を主張してきた。案の定、KANが取り舵を切って中部電力に停止要請。今朝のM紙は黒ベタ白字抜きで伝える!BBCもヘッドラインの中で取り上げた。世間筋は内閣延命策とかパーフォーマンス論評するに違いない。M紙は社説も「浜岡停止要請・首相の決断を評価する」
 KANの「最小不幸社会」は、弱者に手を差し伸べるはず。このまま押し走る姿勢を見守るしかない。5日に思わず官邸にメールを入れたが、フクシマ原発避難に際しての一時帰宅に脚の不自由な足手まといは除外というのは「最小不幸社会」より「最大多数の最大幸福」が大事のジミントウ政治と何の違いもなくなる!
あのエロい渡辺淳一が『波5月号』で、KANをこう評している。
たとえばいま菅総理のことについて、社説から評論まで異口同音に「決断力がない」「政治力がない」と批判するけど、そんなことなら素人にも言える。ただ駄目な総理だと言うだけでは、プロとして金を取れるはずがない。いまは時事問題ではなく戦後史をテーマにしているので書けなかったが、僕ならば、「歴代総理のなかで最も民主的な総理」と書きたい。なぜなら自分ひとりでは何も決められず、これだけみんなに振り回されている菅氏はまさに民主主義者。中小企業の社長だって、社内ではもっと権力を持って独裁的でしょう。
なるほど、こういう判断もあるなあ!
ミンシュトウはリベラル政党である。競争社会の弊害、格差や不公平を減らしてくれると踏んだ多数の有権者が希望を託した。が、口約と実際の振る舞いとの落差の多さに失望も買った。震災をタネに被災者より政局優先の「国民生活第一」政治なのか?ぼんぼん政治家が口にする「友愛政治」は、この震災でどう作用したのか?(5月07日)

晴れときどき阿呆果 クレーの秘密


 国立京都近代美術館の駐車料金と観覧料がタダだったかもしれない。観て得をした気分にしてくれることってある。よくぞこれだけ集めたと思わせる作品群。私が生まれた1940年に没したパウル・クレーの思い描くイメージに堪能できた少しばかり追想できた一日だった。
 ニューヨーカーのソウル・スタインベルグが真似、ベルギーのミシェル・フォロンがそのままパくった線描・構図!ヴァイオリニストでもあったクレーに脱帽!
 詩人でもあった瀧口修造は「クレーの素描は実に空間を怖れるものの筆である」「直線は、それが定規でひかれたような線でも、空間に脅えながら進む線だ」と評する。
ふと、クレーの絵に岡本信二郎の世界を見たが、クレーは子供のように無邪気な世界と混同される誤謬を正していく。「私はむしろ子供の世界を火のように盗んできた有邪気な芸術家であったのだと理解したい」。瀧口は二十年後の詩的断章に「遥(はる)かな鉱脈深く石の虹が眠る」と書いたが、石のように堅い純粋な芸術の謎は謎のままとどめる、たしなみを忘れない。(5月06日)