まや-NET

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月曜日, 5月 30, 2011

晴れときどき阿呆果 万緑

 十二日早い入梅、雨中、ベランダ越しに見える武庫川堤の樹々は水にも濡れて緑滴る。
『万緑』という言葉を聴くとなんとなく晴れ晴れとして上田五千石(九七年没「天狼」)の「万緑や 死は一弾を 以って足る」を思い出し、気分を亢進できる。同時に、ついつい詠いやすい寺山修二の「燐寸擦る 束の間 海に霧深し 身捨つるほどの 祖国ありや」も、喋れない「構音障碍」の口を行き来する。
昨夜、M紙夕刊を観ていたら「万緑の 風の底押す 車椅子」の句が目に付き、胸にキュウンときた。甲子園球場芝生に並ぶ球児たちのカラー写真が付いた歳時記風記事だった。作者は由利雪二 、てっきり障碍者と思い込んで今朝、NET検索したら、1936年兵庫生、結社「からまつ」主宰で句集『塔のある位置』『ふきかえしていった椅子』と「雪来るを誘いて夕の谷の翳・降りきって雪の月夜の安息日・春の雪薪割る音の一度きり」の句が掲載されていた。あちこちで講演会も開いている、ンッ?
由利に師事した中原徳子さんのページに行き着いて事情が読めた。中原さんは1958年香川県生まれで脳性マヒ障碍、由利の「からまつ」同人に加わり、俳句に生きがいを見出した過程で、彼女は由利をこう紹介している。
『先生との出会いは38年前に遡る。都立光明養護学校小学部5、6年時のクラス担任。私立中学の教師から障碍児教育を志して赴任したばかりの熱意溢れる先生だった。授業そっちのけで多摩川で魚を追いかけたり蓬(よもぎ)を摘んだり。外で思い切り遊んだり自然に触れたりする体験の少ない障碍児にそういう機会を少しでも与えてやろうという教育的配慮と今にして思う。(中略)
転機は俳句を始めて十年目に訪れた。手足が痺(しび)れ動きが鈍くなり転びやすくなっていた。秋になり、丈夫が取りえだった母が癌で急逝。その後私の身体変調も急速に進み、ついに首から下が完全にマヒした。脳性マヒの二次障害、頸髄症である。打ちのめされた。支えてくれたのは家族と友人たち、そして俳句。』とあった。
王安石のいう「万緑叢中紅一点」を一つ見つけた!(5月28日)

晴れときどき阿呆果 イスラエルの暮らし

 昼食後、いつものようにSIESTAを決め込もうとしたら、TVからフランス語が流れ出した。05年仏映画「約束の旅路VA,VIS ET DEVIENS」。
冒頭字幕に、1984年にイスラエル政府がスーダン難民キャンプからエチオピア系ユダヤ人(「ファラシャ」と呼ばれるエチオピアの「ユダヤ人たち」で彼らが信奉しているのは「トーラー」=モーセ五書・旧約聖書の最初の五書)をイスラエルへと帰還させたモーセ作戦に基づく映画だと、いう。
OBAMAが第3次中東戦争後の67年停戦ラインをイスラエル・アラブ双方は維持すべきと、提案したばかり。
飢餓の難民キャンプを生き延びるため、母と別れてユダヤ人と偽りイスラエルへと脱出した9歳の少年が主人公。人種差別や宗教問題に直面しながら、愛情豊かな義父母に育てられる。実母への思いを募らせ、やがて医師を志して国境無き医師団になって実母にキャンプで再会、号泣するシーンで終るヒューマン・ドラマ。里親のフランス系両親が『私たちは左翼だ』といきなり主人公に告白、イスラエルの反体制運動をも垣間見せ、ファラシャに集団割礼を強いる人権問題や人種差別問題も取り上げている。嘆きの壁での作法や若者のディスコ、近隣との交わりなど、これまで観たことがなかったイスラエル社会の市民の暮らしが見えた興味津々の2時間半だった。
世界各国映画祭で注目を浴び、観客賞や脚本賞など多くの賞を受賞。
〔製作・監督・原案・脚本〕ラデュ・ミヘイレアニュ〔脚本〕アラン・ミシェル・ブラン〔撮影〕レミー・シェブラン〔音楽〕アルマンド・アマール〔出演〕ヤエル・アベカシス、ロシュディ・ゼム、シラク・M・サバハ〔仏語・ヘブライ語・アムハラ語
〕(5月27日)

晴れときどき阿呆果 ええ加減にせい!

 IAEAが来日してFUKUSHIMAのメルトダウンに関する後出し事実が出てくる。本夕、共同が現場所長の判断で海水を続けたかどで同所長の処分をするとTEPC副社長のムトウは表明、原子力委員長のマダラメも「私はいったい何だったのか。頭の中は相当混乱している」と言い出す始末。
青天の霹靂事故だと言い張る連中もさることながらKAN辞めろや当局を攻め立てる側に積極的対案はカメイの言うように皆無で「思考停止段階」!共産党の不破がいうように「トイレのないマンション」を推進、つくり続けた元凶の責任はトウダイ原子力村エスタブリッシュメントやジミントウ時代に遡る。それを追及されたくないが、問題のすり替え&責任逃れのために、事故後の対応ばかりを論(あげつら)う。ええ加減にせい!とニュースは最近、見ないことにしている。いくら騒いでも、「危機的事態」は何も変わらない。M紙や東京新聞が、冷静に検証している。(5月26日)

晴れときどき阿呆果 吐く息

 重く暗澹とした雲が垂れ込む荒野でいる夢を観た。ときどき胸が圧迫されて息苦しいので覚醒すると、まだ息が吐けるので文字通りホッと一息。
 早ければ3年だとSCDを診断されて6年。近頃は歩行器代わりにしていた車椅子ものったまま過ごす一日になった。誤嚥もままある。手足がフリーズする回数が頻繁になった.
ストイックの語源、ストア学派の祖、ゼノンは加齢で歩き出したとき躓いたのを悟り、自ら呼吸を止めたという。そんなこと可能なのかな?誰しもピンピン&コロリを願っているが、両親や兄の臨終は間に合わなかったので、奈落ではどうなるのか、ついつい考えてしまう。悪夢をみるのはそのせいか。:
白洲正子が、祖父(海軍大将、伯爵・樺山資紀)86歳で隠居先の大磯で息を引き取るときに立ち会った思い出を書いている。
 やがて祖父は深い息を二、三度すると、妙にあたりが静かになり、「ご臨終です」と、お医者さんがいわれた。いかにも最期の生命の火が燃え尽きるという感じで、私の記憶に間違いがなければ、そういう呼吸のことをシャイネストークというと、あとから先生が話して下さった。空気は吸っても、吐く力を失った時が臨終で、「息を引き取る」という言葉もそこから出たものに違いない。
 だが最近は延命装置普及して、医者も簡単に息を引き取らせない風潮が行き渡り、身内も延命に同意すると白洲は嘆息していた。願わくはピンピン&コロリと逝きたいな!(5月23日)

晴れときどき阿呆果 カズオ・イシグロ

 夜、ETVで「カズオ・イシグロをさがしてIN SAERCH OF ISHIGURO」観る。イシグロの英語も聴き取りやすく、インタヴューした福岡伸一の質問も興味深かった!
カズオ・イシグロ(石黒一雄)。五六歳。長崎に生まれ、日本の血筋を持った彼は、現代イギリスを代表する作家である。これまでもイギリス文学最高賞であるブッカー賞を獲得するなど、ノーベル文学賞に最も近い存在のひとりとも言われる。05年の話題作「私を離さないで」が映画化を軸にイシグロに迫っていく。ドナーになるために生育されるクローン人間がテーマだ。記憶と命のはかなさ、尊さ・・・・・・。福岡伸一は、イシグロの作品世界の底にある領域を探求し、「生きること・生命とは何なのか」を捉える。分子がまったく入れ替わったのに「動的平衡」で不変の個人として存在する人間に、確かなことは「記憶MEMORY」だけが存在している?。

晴れときどき阿呆果 アカハタ引用

 K社のSさんが、銀座を取り巻き引き連れ練り歩く姿を観たというのでこのくそジジイ!と普段は思っていたが、M紙のI氏が今日のコラムで珍しく共産党アカハタ記事を引用している。
 14日付の共産党機関紙「しんぶん赤旗」に3ページにわたって掲載された不破哲三社会科学研究所長(81)の<原発災害講義>は出色だった。日本の原発について歴史的、体系的に振り返り、なにしろわかりやすい。 不破が同党の書記局長、委員長時代、三木、大平、鈴木、小渕の四つの自民党政権下で追及してきた実績が講義の裏付けになっている。二十数年間、原発災害という同じテーマで質問し続けた唯一の政治家だ。長年の論戦の実感として、不破は、「質問に答える政府側が、原子力の問題をほとんど知らないで済ませていることにあきれ続けた」と述懐している。
 最初の質問は1976年の三木政権下。当時、原発は6カ所に9基、さらに増設計画が進んでいた。不破は、 「原発の一つ一つが安全かどうかの審査をきちんとやっていると責任をもって言えるか」とただし、佐々木義武科技庁長官が、「十分やっている」 と答えた。ところが、審査体制を調べると、アメリカは1900人の技術スタッフがいるのに、日本は全員非常勤のアルバイト仕事。審査といっても設計図をみるだけだった。
 さらに、福島原発でも大問題の使用済み核燃料についても質問したが、まともな答弁がない。いま、不破は、「政府側がほとんど何も知らないことに驚いた。それから35年たっても、原発の後始末の面では何の手も打たれていない。だから、原発は<トイレなきマンション>と言われてきたのだ」と語る。
 80年(大平)にはスリーマイル島事故の教訓、81年(鈴木)は東海地震と浜岡原発、99年(小渕)は国際条約違反問題を取り上げた。だが、政府側の反応はすべて<安全神話>に浸りきったものだった。不破が言う。
 「菅内閣の対応は本当にだらしなく、政権党として考えられない。しかし、こういう事態をつくり出したのは、2年前まで政権を担ってきた自民党だ。国民的大災害の根源である自民党の歴史的責任に口をぬぐい、今の対応だけを追及して済まそうというのは、あまりにも無責任な態度だと私は思う」
 講義の最後で不破は次の二つの問題を訴えている。(1)原発からの撤退を戦略的に決断する(2)安全最優先の権限と責任をもった原子力の審査・規制体制を緊急につくりあげる(撤退しても後始末に少なくとも20年ぐらいかかる)
と引用は続く。 (5月21日)

晴れときどき阿呆果 

 目に青葉、耳もとでウグイスが鳴き続ける。(5月20日)

晴れときどき阿呆果 210歳、綾部へ行く

 久しぶりに小学校同窓の竹馬の朋友がドライブに連れ出してくれた「210歳のドライブ」。行く先は語感もいい「綾部」!GENちゃんは「サンデー毎日初年兵」。YUKさんはリタイア10年のベテラン、考古学と韓国探求にもっぱら精を出している。綾部への言いだしっぺGENちゃん「地道に地元産業から始めたグンゼは一見の価値アリ」という。道中はなしもいつも正義感に満ちている。塚口のグンゼ跡地に「つかしん」モールが出来た経緯のとっくにご存知。ちかごろ、元尼崎市長の美人がグンゼの取締役に迎え入れたニュースで「ペーペーは終生ペーペーで終るネン。何か空しいねえ」とエスタブリッシュ批判。YUKさん「何故か近ごろ、目が行く新聞の紙面下。訃報記事を見て、まあ70歳超だったら「しあないかな」と妙に納得してるんやでえ、と。
「つかしん」開設時は畏友IZさんが広告代理店担当者、INさんは進出したSEIBU担当者だったので「いい目」をさせてもらったし、行く先のグンゼには某先輩の賢夫人が診療所スタッフだったいきさつをよく聞いた。また、S紙で顔を合わせた女性漫画家Fさんも同社広報スタッフでつとに有名だったことなど車中思いだした。さて、
私市円山古墳 まずは福知山ICで降り、勇猛果敢な福知山連隊跡の自衛隊用地を見ながら由良川を渡る。田植え真っ最中もある田園風景を見ながら舞鶴道の一角に「私市円山古墳」が見えてきた。ここは旧の何鹿(いかるが)郡だという、私市(きさいち)という古名もなんとなく了解。綾部は漢部(あやべ)だったかもしれない。高速道路の補助金で造られただろう古墳公園の駐車場入り、頂上の古墳を見上げる。円墳からは高速道や由良川など周辺が一望できるだろうが、山道、アクセスは断念。GENちゃん曰く「兵庫の五色塚と同じやナ、かの地は明石海峡を見下ろす王が、ここは由良川を見下ろす王がおったんやでえ」YUKさん、愛機を持って古墳踏破に挑戦。高速道を走る車の騒音が駐車場まで響く。こんな静かな里にとGENちゃん。暫時、若葉を見上げて休息。汗かいたYUKさんが降りてきて『上まで登った。陶製の埴輪などが復元されているが一部壊されている、嘆かわしい』と嘆息。YUKさん&解説版によると、古墳は高速道予定ルートで1987年に調査が入り、標高94㍍の山頂で経塚発見。翌年調査で巨大な円墳であることが判明。古墳時代中期(5世紀)のものと推定され、方墳では京都府下最大。自然の山地を利用して直径70㍍、高さ10㍍、南東部に18㍍・長さ10㍍の造り出しを設けて墳丘全面に葺石(川原の石)を置き、3段築成で2段にわたって約1,500個の埴輪を周らす。円筒埴輪が主で、造り出しには家型、盾形などの形象埴輪も。古墳頂部は13㍍の円形で木管直葬、粘土を張った主体部が東方向に2基、南北方向に1基あったらしい。東西方向の主体部分は同じ形式で足元部分に甲胄類一式、鏡、鉄鏃、など。棺中央から頭部にかけて玉類・鉄槍などあったという。北部主体部からは矢をいれる胡籙(ころく)も発掘。すべて市立綾部資料館収蔵。
「ゆらり」でヒルメシ 公園駐車場から由良川に沿って綾部駅前を目指す。JR綾部駅は京都から来る山陰線・舞鶴へ行く舞鶴線・福知山経由大阪へ行く福知山線の分岐点。鉄キチでもあるGENちゃんが戦前の軍部主導の鉄路輸送について解説をしてくれる。駅前で一旦停車。オバアサンの多い待合室を兼ねた駅前案内所でバリアフリートイレに連れてもらい準備ヨシ!GENちゃんが観光案内+昼飯情報を仕入れてくれる。案内所で聞いた「ゆらり広小路」がバリアフリーというので訊ねて行く。駅前通をすこし入ったところに古い商家風の店。吹き抜け太い梁がむき出しの今風レイアウト、BOSEのスピーカーが目に付く。平日なのにほぼ満席。1500円ランチをオーダー、たっぷり待ったら丁寧な懐石風ランチが出てきて、天ぷらは揚げたて。珈琲ケーキがついて満足。中庭もあり落ち着けるランチタイムだった。
グンゼ 駅東の西町アイタウン(目抜き商店街?シャッターがしまっている店多い)を通って山陰線と舞鶴線のレールを横切ると行く手に年代物の建物、グンゼ綾部本社らしい。一番奥はメディカル事業部で使用中。創業者・波多野鶴吉の顕彰碑アリ。何鹿郡の経済発展は地場産業の蚕糸業以外にないと、これを社是ならぬ「郡是」に「地域社会と共存共栄する理想の会社」を1896年、興したとあり、以来110年余。駐車場に車を置き、受付へ。入場料300円(障碍者200円)で記念の繭玉とリーフレット。上履きに履き替えて観覧、車椅子は受付女性がタオルを持参、汚れを拭ってからと指示される。「歴史蔵」では繭の関係資料、織機など。2FへはEVがあり、錦絵などが見られる。ファッション蔵は懐かしいパンストなどの資料。メリヤス(莫大小)から発展する新機能蔵。説明版にスペイン語medias、ポルトガル語でmeias (くつ下)の意。「莫大小」は「大小莫(な)し」の意で伸縮自在であるところからの当て字が使われた由。博物館を名のらず、博物「苑」なのは博物館法適用のシバリを避けるためか。ナールほど!駐車場からのアプローチといい、ちょっとバリアが多すぎる。
景徳山安国寺 ぼちぼち3時近く、もう1カ所、室町幕府開闢の足利尊氏(1305-1358) ゆかりという安国寺への道を辿る。ほどなく舞鶴道の高架近くに寺が見えた。このあたり上杉の荘と呼ばれたらしい。道標どおり駐車所へ上がると、開山堂と宝篋印塔が三基、無銘だが南北朝期の仏塔。三基は左に母堂清子(1342年没)、中央が初代尊氏(1358年没)、右に妻登子(1365年没)古くから足利尊氏母子の墓碑とされている。息子の二代将軍義詮が父母没後、遺骨の一部を当地に迎え建立したという伝聞。秋の紅葉が名所らしいが、訪ねる人なく若葉が美しい。本堂へはバラス敷き詰めが難行だが、委細構わずGENちゃん車椅子押してくれ、YUKさんが轍を靴で消してくれアプローチ。茅葺の本堂がひっそり、うまく齢を重ねた好々爺のように好ましい佇まい。『タカウジ』といえば、皇国史観で「逆賊」、弓削道鏡、田沼意次に並ぶ3悪人の一人でパラノイア説もあった。戦前国史教科書(復刻版)で観た馬上の騎士スタイルの肖像画が一般的だが、滋賀県近代美術館で片岡球子が描いた肖像画を観て「おもろそうなオヤジ」にイメージが変わった。片岡は京都・等持院に残る木像をモデルにしたらしい。カリスマ性はあったものの後醍醐上皇に止めを射せず、内部調整が下手。頼朝や家康に及ばずという、海音寺潮五郎や井沢元彦の評価も頷ける。天皇VS武家の軋轢が尊氏跋扈で日本全土に拡散、南北朝狂乱の世の中になって行く。夢窓疎石を重用して天竜寺を寄進したというが、片岡が描くとおりの人物なら一度、逢ってみたいオッサンではある。
 帰路、道端に尊氏公産湯の井戸とある。1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(当地・綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説あるらしい。『難太平記』は尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。かくて、舞鶴道綾部ICへ急ぎ、西紀SAでトイレ休憩後、宝塚IC5時着。5時半、無事帰宅。またまた気の置けない両君に甘えて極上の日を過ごした。(5月19日)

晴れときどき阿呆果 死後はない!

 帰宅して夕食前に介助してもらいながら入浴。バスタブに浸かると「生きていること」を実感!朝食時の生存感と同じ。
 入浴後、新聞広げると「車椅子の物理学者」スティーブン・ホーキング博士(69歳)が5月16日、英紙ガーディアンのインタビューで、「天国も死後の世界もない」と語ったという。「天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎないとし、死後の世界があるとの考え」をきっぱり否定したらしい。別段言うことないか!!(5月18日)